ゲバラの事。
彼の名前は、ルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。
愛称はチェ・ゲバラ。アルゼンチン人です。
「チェ」とは、「やぁ」とか「ハーイ」とか「ねえ、君」とかの意味です。

幼い頃から喘息を患っていて、生涯、発作に悩まされていました。
ブエノスアイレス大学の医学部に入学し、南米大陸をオートバイで回る旅に出ます。
それでも、六年の過程を三年で卒業した、凄い秀才でした。

放浪中、鉱山労働者やハンセン病患者などの弱者の現実に触れた事が
彼の革命家として歩むきっかけになりました。

訪れたボリビアや他の諸国の問題点に触れ、アメリカの影響からの脱出を
考えるようになりました。

そして27歳の時に、メキシコに亡命していたカストロ兄弟に出会い
キューバにおけるアメリカ支配のバティスタの独裁と戦うために
軍医として参加します。


弾痕が生々しいです。

19世紀の事、キューバ近海を航海していたアメリカの戦艦が
謎の沈没事故を起こし、スペインからの独立を願っていたキューバ側に立ち、
参戦し、おかげでスペインから独立が出来ました。

しかし、そのままアメリカの軍政下に置かれることになってしまいました。
そして、アメリカの資本が入り込み、地方との貧富の差が酷くなってきました。
カストロ兄弟は同志を集め、ゲリラ戦を開始しました。

そして、沢山の血が流れて、独立革命は成功しました。

ゲバラは国立銀行総裁などの要職に就任しますが、
建設現場や農園、工場のライン作業など作業員の一員として
みんなと一緒に肉体労働をやっていました。
また、最大の貿易相手だったソ連を批判し、ゲバラを更迭しなければ
援助しないと言われ、キューバを離れる事になります。

キューバを離れたゲバラは、コンゴに向かいます。
コンゴは当時ベルギーから独立していましたが、ベルギーの悪意により
再び混乱と戦乱状態でした。
ゲバラも参戦しましたが、喘息が再発したため、コンゴを離れました。

そして、チェコに潜伏して、療養に努めました。

体が良くなると再び、革命家として活動を始めます。

向かった先は、ボリビアでした。

この頃のアメリカは、南米諸国に共産主義によってソ連側に付かないように
多額の援助金をつぎ込んでいました。

ゲバラは1959年に日本を訪れました。
広島の原爆記念館での、献花の写真を見つけました。
これがきっかけでキューバの初等教育に
原爆投下の事が教えられる事になりました。
この年の翌年から、日本とキューバの通商協定が結ばれ、現在も続いています。

1964年にはゲバラは国連総会で演説を行い、アメリカを非難し、
「祖国か、死か」を訴えました。
辛い写真を見つけました。
ゲバラの思想はボリビアには受け入れられず、遂に、ボリビア政府軍に捕まり
そして裁判にも掛けられず、即、射殺されました。
彼の最後の言葉は、
「落ち着け、そしてよく狙え。
お前はこれから一人の人間を殺すのだ。」
やつれた写真に見えますが、毅然としていたのです。
遺体は無名のまま埋められ、1997年に発掘されました。

「ゲバラは只の戦闘好きの人殺しだという説もあるんだよ。」
と、誰かが僕に言いました。
そうでしょうか?
あなたは誰かに洗脳され始めていませんか?

傍観者達の、正義感の胡散臭さには辟易します。
「彼には実は・・・・という部分があるんだよ。」
洗脳の手段に最初に使われる言葉です。

善人が犯した僅かな罪を見て、あの人はホントは悪い人なんだと思い、
悪人が行った僅かな善を見て、あの人はホントは良い人なんだと思う。
それは、間違いです。
この国に降り立った時から、腕時計に都市名が降りて来るのを待ちましたが
遂に降りて来ませんでした。
アメリカの衛星を使ってるからでしょうか。
スポンサーサイト