作られた記憶
ここに一枚の写真があります。
18歳の時の写真です。
女の子を二人乗せて真ん中でオールを握り笑っています。
上高地の大正池です。
18の夏、郷里のイワシ漁の船に乗って旅費を稼ぎました。
どうやってそこまで行ったのか、記憶に確信が持てません。
多分、東京駅から東部鉄道で伊香保温泉まで行き、バスを乗り継ぎ
最終的に沢渡からバスに乗って、上高地に向かったんだと思います。
東部鉄道に乗って車内のジュークボックスで夕闇の通りすぎる
車窓の景色を見ながら、木枯し紋次郎のテーマソングを聞いていた記憶がありますが、
それが東部鉄道だったのか、泊まった温泉地が伊香保温泉だったのかさえ
記憶が曖昧です。
バスの車窓から梓川沿いの山を見ながら乗っていると、
多分、前の席の乗客の視線の角度に気づいたんだと思います。
更に45度ばかり首を上げました。
そこには青い空に浮かぶ、穂高連峰の頂が見えました。
貴婦人のように真っ白い雪を身にまとい、気高くそびえていました。
その時の驚きと感動は今でも忘れません。
次の記憶が大正池でした。

青い池の中に立ち枯れた白樺が何本も、
長くて細い杭の様に、突き刺さっていました。
ボートを漕ぎながら透明な青緑の湖水の上から
美しい穂高を仰ぎ見ました。
次の記憶は、観光客で賑わう河童橋からの美しい梓川と
その遥かにそびえる穂高です。

あの大久保清が自分の骨を流して欲しいと言った
透明な緑の梓川の上流に向かって歩き、
18歳の高橋恵子が「朝やけの詩」で全裸で身を沈めた明神池まで歩き、
山のひだやという宿泊施設で、上高地の自然を食堂で教えてもらい、
売店でバイトをしていた東京の女子大生と話し込み、
多分消灯が7時くらいで、その前に慌てて入浴し、
翌朝には真っ白な霧の白樺林を散策し、
陽が昇ったら川岸に降り、樹木や蝶をスケッチしました。

前日は、尾瀬沼の長蔵小屋から木道を歩きながら、白い水芭蕉の群れに立ち止まり、
離合する人の為に、沼に落ちそうなくらいに避けてあげ、笑って挨拶を交わし、
果てない木道を、霧にかすむ地平を目指し歩き続けました。
ここが僕の旅の原点です。
今年の秋の旅はここに決めました。
残念ながら、尾瀬は体力が必要なので来年にします。
尾瀬、上高地の翌年には、清里、霧ケ峰、小諸、美ヶ原を旅しました。
翌々年には飛騨の里へ。
結婚してからも子供達を連れて、信濃路を、黒部を、高山を。
子供達と雪合戦するために、新穂高や白馬に。
夜の7時に熊本から高速バスに乗り、朝の7時に名古屋について、始発の中央本線に乗ります。
木曽路を上り、信州へ。
一人で八ヶ岳へ、そして奥さんと谷川岳へ。
更に80歳を越えた母を連れて、大王ワサビ園から新穂高へ、
野麦峠を越えて飛騨高山へ、木曽川沿いを下って名古屋に戻りました。
僕にとっての山は、富士でも槍でも谷川でも阿蘇でもなく、穂高のようです。
山をイメージする時はいつでも、青い空に浮かぶ穂高が見えてくるのです。
そして今では、初めての場所よりも10代の時に行った所へ、
もう一度行ってみたい気になってます。
そんな歳になったんでしょうか。
上高地の旅館に予約を入れてから、
大正池のボートでのスナップ写真を見ながら、奇妙な事に気が付きました。
同船している女の子はもちろんグループの人間なんだけど、
この子達は僕よりひとつ年下だった気がします。
となると、僕は18歳じゃない事になる。
尾瀬での集合写真を探し出してみました。
この子達は写っていない。
という事は、ここは大正池じゃない。
いつのまにか、記憶が作られていました。
僕は本当に大正池で、ボートに乗ったんでしょうか?
やっぱりもう一度、大正池に行って、ボートに乗るべきなんだ。
18歳の時の写真です。
女の子を二人乗せて真ん中でオールを握り笑っています。
上高地の大正池です。
18の夏、郷里のイワシ漁の船に乗って旅費を稼ぎました。
どうやってそこまで行ったのか、記憶に確信が持てません。
多分、東京駅から東部鉄道で伊香保温泉まで行き、バスを乗り継ぎ
最終的に沢渡からバスに乗って、上高地に向かったんだと思います。
東部鉄道に乗って車内のジュークボックスで夕闇の通りすぎる
車窓の景色を見ながら、木枯し紋次郎のテーマソングを聞いていた記憶がありますが、
それが東部鉄道だったのか、泊まった温泉地が伊香保温泉だったのかさえ
記憶が曖昧です。
バスの車窓から梓川沿いの山を見ながら乗っていると、
多分、前の席の乗客の視線の角度に気づいたんだと思います。
更に45度ばかり首を上げました。
そこには青い空に浮かぶ、穂高連峰の頂が見えました。
貴婦人のように真っ白い雪を身にまとい、気高くそびえていました。
その時の驚きと感動は今でも忘れません。
次の記憶が大正池でした。

青い池の中に立ち枯れた白樺が何本も、
長くて細い杭の様に、突き刺さっていました。
ボートを漕ぎながら透明な青緑の湖水の上から
美しい穂高を仰ぎ見ました。
次の記憶は、観光客で賑わう河童橋からの美しい梓川と
その遥かにそびえる穂高です。

あの大久保清が自分の骨を流して欲しいと言った
透明な緑の梓川の上流に向かって歩き、
18歳の高橋恵子が「朝やけの詩」で全裸で身を沈めた明神池まで歩き、
山のひだやという宿泊施設で、上高地の自然を食堂で教えてもらい、
売店でバイトをしていた東京の女子大生と話し込み、
多分消灯が7時くらいで、その前に慌てて入浴し、
翌朝には真っ白な霧の白樺林を散策し、
陽が昇ったら川岸に降り、樹木や蝶をスケッチしました。

前日は、尾瀬沼の長蔵小屋から木道を歩きながら、白い水芭蕉の群れに立ち止まり、
離合する人の為に、沼に落ちそうなくらいに避けてあげ、笑って挨拶を交わし、
果てない木道を、霧にかすむ地平を目指し歩き続けました。
ここが僕の旅の原点です。
今年の秋の旅はここに決めました。
残念ながら、尾瀬は体力が必要なので来年にします。
尾瀬、上高地の翌年には、清里、霧ケ峰、小諸、美ヶ原を旅しました。
翌々年には飛騨の里へ。
結婚してからも子供達を連れて、信濃路を、黒部を、高山を。
子供達と雪合戦するために、新穂高や白馬に。
夜の7時に熊本から高速バスに乗り、朝の7時に名古屋について、始発の中央本線に乗ります。
木曽路を上り、信州へ。
一人で八ヶ岳へ、そして奥さんと谷川岳へ。
更に80歳を越えた母を連れて、大王ワサビ園から新穂高へ、
野麦峠を越えて飛騨高山へ、木曽川沿いを下って名古屋に戻りました。
僕にとっての山は、富士でも槍でも谷川でも阿蘇でもなく、穂高のようです。
山をイメージする時はいつでも、青い空に浮かぶ穂高が見えてくるのです。
そして今では、初めての場所よりも10代の時に行った所へ、
もう一度行ってみたい気になってます。
そんな歳になったんでしょうか。
上高地の旅館に予約を入れてから、
大正池のボートでのスナップ写真を見ながら、奇妙な事に気が付きました。
同船している女の子はもちろんグループの人間なんだけど、
この子達は僕よりひとつ年下だった気がします。
となると、僕は18歳じゃない事になる。
尾瀬での集合写真を探し出してみました。
この子達は写っていない。
という事は、ここは大正池じゃない。
いつのまにか、記憶が作られていました。
僕は本当に大正池で、ボートに乗ったんでしょうか?
やっぱりもう一度、大正池に行って、ボートに乗るべきなんだ。
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