東西南北 名字のなぞ

仕事中にお客様の検索をやっていて、ふと疑問が湧きました。
西の字が付く名前が、東に比べると多いなぁ。
西川、西里、西田、西林、西岡、等々
これは西にある地形や場所に住んでいるところから付けられたと考えるとして、
同じ理由で東を付けてみると、東川、東里、東田、東林、東岡ってあまり聞かないなぁ。
北と南も同じ。
北は多いけど、南は少ない。北川、北山、北林、北村、北岡等。
まず、どこを基点としているのか。
基点から西や北には人が多く住んでるけど、東や南には人が少ない。
日本地図が脳裏に浮かんできた。
東京だ。東と南は海だ。
でもありえない。人の名字は誰が決めたのか調べないといけないけど、
日本全国の名字を東京一極で決定なんてありえないし、そもそも名字を付けるときに
どこに誰が住んでるなんてどうやって分かるんだ。
それに第一、江戸にそんな権力なんか無いはず。
小学生の頃の先生の話を思い出しました。
僕の村は小さな漁村ですが、名字に中村、尾上、嵐が非常に多いです。
昔、船に海産物を積んで関西辺りまで行き、遊んで帰って、当時の歌舞伎役者の
名字を付けたという話です。
そうだ、自分の名字は自分で決めてたんだ。
気になりだしました。ひさしぶりにワクワクしてきます。調べるか。
で、調べ始めて今回はかなり難解です。
分かったことだけ記載します。
まず最初に、さっきの江戸うんぬんはすべて間違いでした。
東西南北の中でだれが一番多いか。西さんや北さんか。
いいえ、一番は東さんで166千人います。次が南さんで113千人
西さんが99千人で北さんに至ってはデータが無いほど少ないです。
つまり東と南には人が少ないというのは全くヘンになります。
名字を付ける事が国民全員に義務となったのは、1875年です。
わずか138年前です。母が生まれる47年前です。
理由はこの年から戸籍制度が始まったのです。
それまでは、なんとか村の清兵衛や、清兵衛んとこの与作だったんです。
当時名字をすでに持ってた家は土地の豪族や名士、要するに
家系図がある家だと思えば早いです。
名字のなかった家は家系図が成り立たなかった人々です。これも要するに
戦の時に先鋒で戦わされたり、働きすぎで若死にしたりで家系が続かないんです。
どういう名字をつけるかは自由です。
好きな武将の名字や、憧れの人の名字、お店の屋号や商品名も自由です。
当時、島津や徳川、細川、武田などが増えたし、村人が全員同じ名字だったり
たとえば、花屋さんや魚屋さんは、花谷さんや魚谷さんになったみたいです。
楽しいですね、僕もこの頃にいて、自分の名字を決めたかったですね。
よくいますよね、自分ちの名字の由来を知りたがる人って。
もし、明治以前からの家系図が無ければ、残念です。
そん時のご先祖様の気分で決まったと思ってください。
最初に名字を授けたのは天皇陛下です。
天皇家から分家して一家を興すとき、天皇から名字を賜って独立したとの事です。
天皇家以外の有力豪族にも名字を与え、天皇家と繋がりを持たせたとの事です。
各豪族も戦で手柄を立てた人に褒美とした名字を与え、
豪商や豪農達も名字を持つ事ができ、本家から分家する人達にも与えたのです。
分家といってもあまり遠くに住むことはありません。
本家の西にある村に住み西村さん、北の川に住んだ北川さん。
つまり、基点は同族の本家のようです。
地名の名字の人がよくいらっしゃいますが、
たまたま同じ名前になったという方が正しい気がします。
例えば、熊本さん。
1607年に加藤清正が肥後の国を与えられ、54万石となり隈本城を建設します。
この時、隈の字の畏れる(オソレル)という字が大名の居城として気に食わないと
隈本を熊本に変えてしまいました。
くまモンの生みの親です。
それ以前は熊本という地名は無かったという事になります。
1875年の名字の義務化の時は存在はしますが、
自分の名字にする意味が見つかりません。
熊本さんは福岡に2,500人ほどいますが、熊本県にはほとんどいません。
個人名ハローページで熊本市内に2名いました。
宮崎さんも日本中に、特に関東、関西にはたくさん、宮崎には千人程度です。
さて、このくらいまでは調べたのですが、最初の疑問が解決できません。
なぜ、地形が西や北に付くのに、東や南に付かないのか。
あれっ、にしもきたも二文字だ。ひがしとみなみは三文字だ。
まさか。語呂が良いとか悪いとか?まさかね。
疑問は続きます。
ちなみに、天皇陛下には、もちろん、名字も苗字も姓もありません。
今回は写真が無いので意味ない桜と、冷蔵庫に入る前の佃煮を挙げてみました。

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